テロとの闘い:実行犯の民族的出自の皮肉な解釈
テロとの闘い:実行犯の民族的出自の皮肉な解釈

バルセロナでのテロ実行犯全員が非常に若年齢でモロッコを離れたにもかかわらず、多くのメディアは彼らを「モロッコ人」と報道した。あたかもモロッコに今回のテロ攻撃の責任があり、モロッコの国際的イメージを失墜させることを狙っているかのようである。

さらにモロッコ人という出自が、彼らをテロに走らせたという含みが見られる。しかしメディアは実行犯らがスペインで育ち、彼らを過激化した宗教指導者イマームは17年も前にモロッコを離れており、彼自身スペインで過激化したという事実にはあまり触れていない。

 

モロッコ人?それともスペイン人?

ユーネス・アブーヤークーブは、バルセロナのラス・ランブラス通りにバンを運転して突っ込んだ。13名が死亡、120名以上が負傷した。彼はモロッコの中アトラス山脈にあるムリットという街の出身である。彼は両親に連れられて、7歳の時にスペインに移住した。

彼の兄弟フセインは、カンブリスでカタロニア警察に射殺された容疑者の一人で、4歳の時に家族とともにスペインに移住している。

テロ容疑者としてメディアで報道されているヒシャーミー兄弟の場合、弟のオマル・ヒシャーミーは3歳の時に、兄のムハンマドは6歳の時に、ムリットからスペインに移住している。

 

アラー兄弟の場合も同様である。弟のサイードは8歳、兄のユーセフは11歳でモロッコのクスィバを離れた。

彼らの兄弟であるムハンマド・アラーは、一旦警察に逮捕されていたが判事の判断で釈放されていた。今回のテロ攻撃の容疑者のなかで最年長者である彼は、スペインに16歳で移住し、ジハード主義者らの思想に影響されるに十分な年齢に達していた。

ウカビール兄弟の場合は、前述の2兄弟とは事情が異なる。カンブリスで射殺された5名のうちの一人ムーサーは、スペインのリポリで生まれ、国籍もスペインである。彼の兄弟ドリースはアグバラで生まれ、10歳のときにモロッコを離れた。

カタロニアでのテロ攻撃で名前の挙がったムハンマド・フーリー・シャムラールは、モロッコ北部のナドール近郊にあるファルハナで生まれ、生後6ヶ月でスペインに移住した。

 

テロリズムのはびこる土地

このように今回のテロ攻撃の容疑者全員が、モロッコを非常に若い年齢で離れたにもかかわらず、欧米のメディアはモロッコという出自がテロ攻撃に走らせたのだという論調である。

若者が過激化する理由はひとつではない。生活環境もそのひとつである。

容疑者らはスペインで育ち教育を受け、人格を形成し、信念・信条をはぐくんだ。しかし、一旦彼らがテロに走ると、彼らは「モロッコ人」として言及される。

ウカビール兄弟とヒシャーミー兄弟は、ともにリポルで、隣人同士として暮らしていた。他の移民の子どもらと同じ学校に通っていた。スペイン人の子どもはあまり多くはなかった。

このような一種の隔離された環境の中で、多くのフラストレーションが溜まっていた可能性が高く、その場合はジハード主義のプロパガンダのターゲットにされやすい状況にあったといえる。

また、容疑者らはモロッコではなくリポリでモスクに通っていた。つまり自国でのイデオロギーを監視する責任はスペイン当局にあり、モロッコ当局にあるとはいえない。

イマームのアブデルバッキ・サティーは、容疑者らを過激化した主要人物であるとされている。彼はモロッコのシェフシャーウェンで生まれ、2000年にモロッコを離れた。当時は何ら過激主義者ではなかったという。麻薬の密売に関わった罪で、スペインで服役した際に、過激主義に染まったとされている。

刑務所から出所した後、リポルでイマームとなったが、モロッコのウラマー(イスラーム知識人)高等評議会から外国におけるイマームとしての資格を得ているわけではないため、モロッコは彼の過激思想について追及することはできない。

たとえモロッコに生まれても、「モロッコ人テロリスト」らの教育、信条、生き方は受け入れ国に負っている。受け入れ国でテロが「育まれた」のである。

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